今は感情が僕を動かす。

7/18日に起きた京アニの事件についての僕の気持ちです

 

 

悲しいです。辛いです。これは、理不尽にこんなにも容易く奪われる命を目の当たりにした自分、京アニの作品によって救われてきた自分、あらゆる自分としての感情です。

亡くなった方々に哀悼の意を捧げるとともに、もうこれ以上被害が大きくならないでほしいと心より願っています。

 

火災の様子は通学中スマホに届いたニュースによって知りました。

それから大学の授業なんて全く頭に入らなかった。テストの緊張なんか、知らされる負傷した方々の増え続ける数字と深刻化する現場の様子による体の緊張で消えてしまったのだと思う。

帰りの電車では他に気を紛らわすことができず、とうとう泣いてしまった。

画面越しの手の届かない、たとえ手が届いても今の自分には何もできなかった事実。

見ていることしかできない現状。

 

だから、自分にもできること、これからできることを微力ながらしました。

Sentai Filmworksが開いているクラウドファンディングへの寄付。

(追記:他の募金にも微量ながら入れました)

 

 

感情に理由を求めるなんてのは無価値な思考だとわかっています。

でも、この悲しみを無かった事には絶対にできないから少しだけ書かせてほしい。

 

失った命は戻らないという当たり前が何よりも辛い。

感情的に書いている。そんなの分かっている。

感情的にならなければ、悲しいことなんて、辛いことなんてない。

でも、僕の感情を沸かせてきた京アニを想うのは感情がなくてはならないものだから。

これからもこの感情を持って作品を迎えさせてほしいから。

 

 

こういった深く抉るような辛い感情は自分に何かの動機を与える。

 

自分は高校の頃は将来について考える際、必ずこう思っていた

「したいこととはすべきこと」

これは、自分にとって「したいこと」は何かと真剣に悩んでいた時に生まれた考え。当時の自分は将来生きていくためにする仕事として「したいこと」がなかった。他の人の持つ、例えば、スポーツ選手やマンガ家、ミュージシャンといったそれをすることが目的の大半のいわゆる「自己目的的」な行為による仕事。それが自分に無いのが辛かった。でも、したいことでもない生きることしか考えず金を稼ぐだけの仕事は絶対に嫌だった。だから欲しかった。夢中になれるもの、それ以外考えられないくらい好きでいられるものが。

そんな(きっと多くの人が持っているだろう)悩みを持っていた時に辿りついたのが先述した「したいことはすべきこと」という考え。

 

はっきりとは覚えていないが、この考えが生まれたその時もきっと深い悲しみといった感情に支配されていたのだと思う。

 

そもそも人の「したい」という気持ちは「自分のため」である。

「自分が楽しいから」ならもちろん自分のため

「人を助けたいから」だって、自分の「助けたい」という気持ちを叶えるため

だから、自分もしたいこと、その行動理由を自分だけじゃなくて周りに求めることだって「したいこと」を探すことになるんじゃないかと考えた。

様々な理由で肉体的や心的に傷つく人々。例えばそういったニュースを見た時、それをどうにかしなければならないと考えた。それに対処する上で逆に自分は苦しい思いをすることは分かっていたから、シンプルに「したいこと」とは言えなかった。

でも、これは「すべきこと」だった。

そして、傷ついても誰かを助けなければ自分はその罪悪感に殺される。そんな自分を助けるために「すべきこと」から「したいこと」に変わった。

 

僕が一番欲しがっていた「したいこと」の空席を埋めることができたと思っていた。

でも、「したいこと」を見つけてもそのために行動はしなかった。

行動しないということはつまり、それほど強く想っていないんじゃないかと自分を疑い始めた。「すべきこと」が「したいこと」になるのは、強い感情を抱いている時だけなのだと。自分が嫌になった。本当は傷ついている人への感情なんて大したことないんじゃあないかって。

それでも、悲しい出来事を知る度にに「すべきこと」が生まれる。でもそんなニュースは見たくない。でも見たくないからそのために努力する必要がある。

そういった感情をあえて生ませるために、悲しい出来事を自ら接種するようになっていった。

こんな矛盾した状況にだんだんと心はおかしくなっていった。

悲しい、辛い。唇を噛み、涙を流す度に感情的な行動で今まで積み上げたものを容易くリセットしていった。

喪失感だけが残った。

 

でも

昨日の京アニのニュースを見た僕は悲しいし辛い。

何もできない無力さを恨んだ。

この感情が落ち着くまではきっと「しなければならないこと」が一つ新たにできているのだろう。そのために行動を起こすのだろう。

その命を救うことができるなら、きっとなんでもするだろう。

そして、この感情が落ち着いたら再び何もできない罪悪感に僕は飲み込まれるのだろうか。

 

 

したいことができた。

しなければならないことではない。

僕は絵を描きたい。

 

そして京アニの作品を、再び見せてほしい。